忘勿石
第2次世界大戦末期、波照間の全島民が軍の命令により南風見田に強制的に疎開させられた場所です。
当時一帯は伝染病マラリヤの汚染地帯でした。
そしてほぼ全員が疾患し、島民の3分の1が命を落としたということです。
波照間国民学校の校長であった識名信升氏によって国民学校の青空教室として入学式と授業が行われた場所です。
疎開地でも教育を続けようとした試みに対し、強制疎開の命令者山下軍曹はそれを中止させました。
間もなくマラリヤの伝染が始まり、子供達も多くがその命を落としました。
この10文字は、識名校長が、自らの直訴により疎開を解除し、島に帰る際にひっそりと刻んだものです。
識名校長は石原ゼミの調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、
強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、
「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えています。
忘勿石の入口
ジャングルのような小道を抜けていきます
右上の石が忘勿石です